(あの子……また来てる)

 
時刻は夜の7時。空はすでに濃紺色に染まりナイター用の水銀灯の明かりがコンクリートの壁を鮮明に描き出していた。
公園の入り口近くにある自動販売機の前に男の子がいた。しばらく、普通よりも長い時間迷ったあと、男の子はボタンを押した。屈んだとき、金色の髪が自動販売機の人工的な明かりに照らされて光ったのを見た。
 
ブルータスは壁にボールを投げた。
風の音すらしない静まり返った夜の公園に硬い音が響く。
壁に当たったボールは微妙に屈折して返ってくる。ブルータスは少し右に走り、グローブでそれを受け止める。いつもより重たい。それからまた投げた。白いチョークで描かれた的にちょうど当たり、真ん前に返ってきたボールをまたキャッチする。
額の汗をぬぐう。
新品のグローブを嵌めた右手で、左手から投げたボールを受け止める。それを数回繰り返す。まだ硬くよそよそしいそのグローブは自分の手にもボールにも馴染んでいないのが分かる。
ボールを握ってみる。やはり違和感がある。手の動きに素直にしたがってくれない。
 

ブルータスは視線をあげた。
男の子は明かりの下のベンチで本を読んでいる。一瞬こちらを見ていたような気もするが、そうだったにしても今は一切の興味を組んだ膝の上に乗せた本に向けている。たまに先程買った飲み物の缶に口をつける。

凝縮された彼の意識が伝わる。夢中になっているというよりも意図的な集中であるように見える。とりあえず時間を潰すための努力の上での集中なのだろうとブルータスは思った。じっくり本を読むには夜の公園は適した場所ではない。
 

ブルータスはまたボールを投げた。ちょうど壁の窪みに当たったのか、ボールは見当違いの方向へ跳ね返った。
あぁ、と小さく呻き声をあげ、ブルータスはボールを追った。ボールは茂みに入ってしまった。腰を屈めて手を伸ばす。指先にボールの感触を感じ、ブルータスはぐいと肩を入れてしっかりボールを掴む。
茂みから上半身を起こすと服には小さな葉が大量についていた。
 
振り返ったとき、男の子はもういなかった。残された白いベンチが神秘的に照らされている。
ブルータスはもう一度ボールを投げた。
 
 

本当なら塾の時間だった。部活の午後練の関係で遅い時間に申し込んだ授業だがどうにも気が乗らなくいつも遅れていくことになる。それも同じ野球部の他の連中はひとつ前の時間帯の授業にちゃっかり申し込んでおり、結局この時期部活を優先させたのはブルータスくらいであった。優先というのは語弊があるかもしれない。受験勉強に大して人一倍やる気がなく、ちゃちな嫌悪すら持っていた。
 
コンビニに寄ってから塾に向かう。残り45分の授業を受けて、わかったようなわからないような気になって家に帰る。

旧式のコンポの電源を入れる。彼の好きなインディーズロックは勉強するにはうるさすぎる。ポップミュージックに変える。
机に座りノートを開く。シャーペンを握り、少しの間を開けて思い付いたように参考書を取り出す。
数学……な気分ではない。英語の長文も読む気力がない。古典の参考書を選ぶ。

 
「忘れがたき……くちをしきこと多かれど……」

 
古典はましだ。物語だからまだ楽しめる。

それから黙々と勉強を続ける。後ろで流れている音楽にも気が付かないくらいに集中する。
月が高く上がる頃、ブルータスはシャーペンを握ったまま机に突っ伏していた。その光が柔らかくブルータスの黒髪を濡らした。
 
 




次の日も同じように過ごした。
学校が終わり、公園に行く。壁当てをし、グローブの感触を確かめる。隣では高校生くらいの女の子がテニスの壁打ちをしている。広場では小学生くらいの男の子が数人でサッカーをしている。ナイターの白い明かりが暗闇の中で存在感を増した頃、コンビニで夕飯を買ってから塾に向かう。
 

昨日の男の子はいなかった。彼が着ていた制服は私立のもので、確かここらじゃ一番レベルの高い中学だった。
見た感じでは大人っぽく、中学生らしからぬ気品があった。1年でも2年でもない気がする。ならばブルータスと同じ3年生かもしれない。参考書でも読んでいたのだろうか。だがそれにしては受験生特有の切羽詰まった雰囲気はなかった。彼の集中はあくまで持て余した時間を最大限に生かすための意識的なものだったように思う。
不思議な存在感、俗世離れした雰囲気があった。だがどこか親密な空気を感じた。それはブルータスの心を強く引き付けた。
 

気晴らし目的で行っていた壁当てもそれからは別の目的を持つようになっていた。最近よく見かける男の子、あの子と話してみたい。はっきりと心のうちでそう思ったわけではないものの、公園に壁当てをしに行くときの気分が受験の逃げ道といういつもの鬱屈としたものではなく、それ自体に意味を持ち、どこか浮かれた気分に変わっていたことはブルータス自身にもわかっていた。だがブルータスがそんな自分に対し叱咤することになる前に、その目的は急速に手の届く距離に迫ることとなった。
 

いつも通り、学校帰りにそのまま公園に向かう。公園に入ってすぐに、右手に高い壁をあつらえたテニスコートほどの大きさのコンクリートの敷地があり、左手にいくつかのベンチと自動販売機が2つある。休日の昼にはそこのベンチで老人が数人で囲碁だか将棋だかをやっていたりする。先に進むとサッカーと野球が同時にできるくらいの広場がある。その広場を取り囲むようにアスレチックの遊具がいくつかある。

今日の公園はブルータス以外には誰もいなかった。テニスの女の子も、サッカー少年も、もちろんあの男の子も。
気の抜けた気持ちになりながら、ワイシャツからTシャツに着替え、グローブとボールを鞄から出した。胸の位置で左手から右手にボールを投げてグローブを慣らしていたとき、視界の端のベンチに人影が重なった。
あの男の子だ。

男の子は前と同じベンチに、前と同じ感じで座った。それから本を取り出して読み始める。
ブルータスは胸が泡立つのを感じた。この高揚した気持ちを消化する方法はひとつしかない。
彼に近づくこと、彼に話しかけること。
数秒間見つめていた。だがあちらの彼はブルータスの存在に気付いてすらいないのか、一向にこちらを見ない。いや、気が付いていたにしてもそれが普通の振る舞いだろう。
勝手に抱いていた親近感は全くの役立たずで、ブルータスにできることはいつも通りボールを壁に投げることだけだった。

 
しばらく、時間にして15分ほどたったとき、男の子が本を閉じて立ち上がった。
おそらく無意識だった。ブルータスはボールを壁に思いきり投げていた。コントロールを失ったボールは大きく角度をつけてあらぬ方向へ跳ね返った。
すぐに走れば取れる距離だった。だが最初の一歩は意識的に見送った。ボールは壁の上の方に取り付けられているナイター用の明かりが照らす範囲からはずれ、暗闇に消えた。それからまた別の明かりにさらされた。
ベンチの横に備えられた明かり。立ち上がった男の子から数メートルの距離。ブルータスは駆け出した。
男の子はブルータスと彼が追うボールに気がついて立ち止まった。考えるようなそぶりを一瞬見せて、自分のほうが明らかに距離の近いことを確認すると彼はボールに向かって歩いた。だが彼がそのボールに到達したときとブルータスが彼の前まで走ってきたのはほぼ同時だった。男の子は躊躇った様子で、ボールを拾ってブルータスに手渡した。視線は上げないで、お礼を言われるのを見越した様子で頭を下げながら。


「ありがとう」


男の子は鞄を肩に抱えなおして「いえ」と小さく呟いた。そのままブルータスと目を合わせることなく公園の出口に向かおうとした彼の肩を、思わずブルータスは掴んでいた。振り向いた男の子の顔はいつもの彼の雰囲気からは想像できないくらい率直な驚きを表していた。だがすぐに落ち着いた表情に切り替えて、ブルータスに向けた視線は責めるような気色も混じっていた。


「あ、あのさ」

「……はぁ」

「今暇?」


言った瞬間頬が火照るのを感じた。何て恥ずかしい誘い文句。ナンパじゃあるまいし。
ブルータスの言葉に男の子は予想通り怪訝な顔をした。異形のものでも見るような目つきでブルータスを見返している。
ブルータスはあわてて次の言葉を捜した。


「時間、あったらさ、キャッチボール付き合ってくれない?」

「……キャッチボール?」

「一人だとあんま練習にならなくてさ。時間あったらでいいんだけど……この時間、結構見かけるから、もし暇だったらと思って。あ、俺野球部なんだけど」


早口でまくし立てるブルータスに男の子は気圧されたようだった。そして苦笑いらしきものを浮かべる。


「……俺、野球とか体育の授業でしかやったことないけど」


伺うような目線で男の子はそう言った。その声には好意的な響きが混じっていた。


「全然、いいよ! 別にガチでやるわけじゃないから。マジでいいの?」

「うん。別に、いいよ」

「よっしゃ! じゃ、やろ!」


ブルータスは壁当ての広い敷地に駆け出した。男の子は躊躇いながらも歩いてついてきた。
荷物を置いた場所に行き、グローブをもうひとつ取り出す。前までブルータスが使っていた、くたびれたグローブだ。


「古い方でいい?」


男の子は頷いた。


宣言していたとおり、彼はキャッチボールに関してはまるで不得手だった。まず、力がないのかボールがあまり飛ばないので二人の間の距離はだんだんと縮まることになった。ブルータスが投げたときには、グローブで受け止めたと思ったらその瞬間なぜか落とすこともある。

何度かボールが二人の間を往復し、男の子も大分慣れてきたようだった。男の子はあまりうまくはないので野球の練習にはならなかったが、何かが体を沸き立たせ、確実に身についているのを感じていた。それは精神的な何かだった。
興味が、好奇心が満たされその形をさらに増大させる。行き場を知らず散らばっていた気持ちが胸の底に居場所を見つけて収まっていくのを感じる。

ブルータスは久しぶりに開放的な気分になり、この時間を心から楽しいと思えた。男の子の投げるボールも段々に遠くまで飛ぶようになり、学生服でありながらよく動くようになった。彼のほうでもきっとこのやり取りを楽しいと思っている。なんとなくそれがわかる。

時刻は7時半。ブルータスははっとして彼に近づいた。男の子はワイシャツの袖をたくし上げていて、グローブをはずすと額に張り付いた髪をかきあげた。


「……どうかした?」

「いや、時間平気だった? いつもこの時間にはいないから」

「あぁ、うん……。たぶん」

「たぶんって?」


彼は少し笑って、またグローブを嵌めた。もう片方の手でグローブをなでる。


「なんか、これ馴染む」

「グローブ? それ小学校のときから使ってたんだ。少し小さいだろ?」

「小さいかなぁ。すっごい使い込んでるね。糸でてる」


言いながら男の子はグローブを嵌めた方の指を開いたり閉じたりした。
自分のもののようにグローブを扱う彼を見ても、ブルータスは悪い気がしなかった。むしろ嬉しいとさえ思う。


「あげよっか」

「……え?」

「俺、もう使わないし」

「え、いいよ」

「いいって。そしたら……俺がいなくても練習できるじゃん。結構楽しいっしょ?」


男の子はグローブを見つめながら難しい顔をしていたが、やがてゆっくり頷いた。


「それより、こんな時間まで本当に大丈夫?」

「う……ん。まぁ……」

「……何年生?」

「中3」


その答えと、男の子の曖昧な様子からブルータスは直感した。なんだ、彼も同じだ。


「サボり?」


男の子は押し黙ってしまった。どうやら図星らしい。偏差値の高い私立中学に通う子でも塾をサボることはある。


「もう少しやる?」


ブルータスはボールを投げるそぶりをした。